インターネット懐古主義

先日、打ち合わせでマストドンの話題になり、

今のところマストドンの魅力は「Twitter黎明期のクローズドな楽しさ」なんでは、という結論になったのだけど、

ふと、Twitter登録したての2009年とか、iPhone持ちたての2008年、さらに遡ってインターネットはじめたての1998年辺りの感覚を思い出していたら、今のネットやSNSに対する違和感に納得がいった。

 

わたしが中学生のころ、つまりWindows98全盛期のADSL時代、インターネットは匿名が当たり前で、まだネット人口は少なく、リア充を気取ることもなく、掲示板やチャットで顔も名前も知らない同士が好きなものについて好きなだけ話せるコミュニティだった。当然わたしもハンドルネームで会話に参加し、学校にまともな友達がいなくても、ネットで知り合った県外の友達と会ったり文通したりFAXしたりして死なずに過ごせた。

 

高校生になってPHSや携帯電話を持ち始めると、それはメル友、mixi魔法のiらんど・・・などに広がり、少しずつネット人口も増え、連絡手段はocnメールからピッチのショートメールに移行していった。たまたまアドレスを間違えて送った知らない人とメル友になり、実際に会って遊ぶようになったり、mixiで同じコミュニティにいるなんとなく趣味の合いそうな人のプロフィールに足あとつけたり、つけかえされたり、しばらくして街中でばったり会ってしまったり、、、(やっぱりそこから仲良くなったり)

とにかくインターネットには「ちゃんとした」出会いが溢れていて、好きな人同士がすぐ繋がれる手段がたくさんあった。めちゃくちゃ刺激的できらきらしていた。すべての出会いが恋みたいで、いつもどきどきしていた。

 

ところが今となっては本名前提のfacebook、リアルで知り合ったあとにSNSで事後フォロー、すごいおいしいかわいいの投稿、社交辞令だらけの馴れ合いコミュニケーション。みんな自分を良く見せようと必死だ。そのぎゅうぎゅうサンドイッチに広告も挟まってくるもんだから、いらない栄養がどんどん勝手に入ってきて気づけばおなかいっぱいだ。でも満たされない。能動的だったインターネットが、いつのまにか受動的になってしまった。マス化というのはそういうことだ。そりゃそうだけど、悲しい。

インターネットは肩書きに縛られ、フィルター越しのキラキラ投稿に脳みそが麻痺し、わかっていても自分と比べてどんどん焦る。そして結局わたしもいつのまにか、ネット上でさえも、みんなにいい顔している。

 

窮屈、、、

 

あのアイコンの人に会えた!とか、インターネットネームとか、もう意味がなくなってしまった。それでも私はまだ抗おうとしているのか、やっぱり慣れないのか、いまだ本名は出さずにリアルな書き込みを極力避けたりもする。どうしても居心地が悪い。大人に支配されたインターネット。インターネット異業種交流会。

 

だからこそ、マストドンに密かに期待する。

名刺じゃなくてアイコンで、

本名じゃなくてハンドルネームで付き合いたいんだ。

ノンフィクションしかないこの世界、インターネットにファンタジーの余白を残しておいておくれよ。

逃げ場がない世の中は、辛すぎるから。